みなさんも、阪神パークの楽しい思い出を語りましょう!(^o^)/
はじめまして。阪神パークの事を検索していて、たどり着きました。
小学生の頃、球場から10分ほどの所に住んでいました。通っていた小学校では、基本的に全員が「阪神子供の会」に入会するので
阪神パークの年間フリーパスのような物をもらう事ができ、よく通いました。
私が住んでいたのは、巨人から小林繁投手が移籍してきた頃。子供の会の代表として、球場で小林投手などと一緒に写真を撮り、会員募集のポスターに使われたりしました。
私が阪神パークに遊びに行っていた頃は、「トラバンド」という乗り物がありました。円盤状で、くるくる回りながら斜めになったりする乗り物なのですが、弟と二人で妙にはまってしまい、何度も乗りました。
お金が無くなってくると、弟だけを乗せて、私は外で見ていたりしたのですが、トラバンドの係のおじさんがとてもいい方で、「いいよ乗りな」と言ってくれて、一人分の料金で二人乗せてくれたりしました。
私は今東京に住んでいますが、ふとした事がきっかけで、阪神パークの閉園を知りました。閉まってしまった後で知ったのであれば、「残念」で終わるかもしれませんが、閉まる前に知った今、何十年かぶりに阪神パークへ行くために、新幹線やホテルの予約をしたところです。
震災もあり、様子もすっかり変わってしまったかもしれませんが、とても楽しみです。
東京都 yookoさん
こんにちは 阪神パークでの思い出は。。。。
親子二代で楽しませていただきました。
私は今30代ですが、子供の頃母がよく連れて行ってくれしました。当時写真が何枚か残っていますが、とっても印象に残っているのが、
ぞうさんの前で駄々をこねてしゃがんで泣いてる写真があります。むかしからよくその話を聞かされていました。
今は息子がよくぞうさんみたいといってよく行かせてもらっています。
「もう少ししたらぞうさんどっか遠いところに行っちゃうんだって」って息子に言うと
何も言わず泣いてしまいました。私も同様にとっても残念です。
できれば閉園するまで何度か足を運んで私が撮った同じ場所で写真が残したいと思っています。
本当に関係者のみなさま、それからたくさんのどうぶつさん
長い間有り難うございました。どこかであえることを楽しみにしています。
西宮市 わんぱくかずちゃん (30代ママ)
阪神パークの思い出と言うと夏のデラックスプールと冬のアイススケート、
これは毎年欠かさず友達と何度も何度も行きました。ただしそれは小中高の12年間に限りますけど。
やっぱりオトナになってから友達同士で行くような遊園地じゃなかったので18くらいの頃からは阪神パークから遠のいてしまいました。
最後に行ってからもう20年が過ぎましたが、結婚して子供ができてからも阪神パークには行くことはありませんでした。
最終日には家族で行ってみようかと思ってます。
演芸ホール、なつかしいですね。私は小学生の時に弟とゴレンジャーショーを見たなぁ。女の私には面白くなかった^^;
神戸市 はっとはこさん (30代 女)
とうとう閉園ですね。寂しいです。阪神パークの一番の思い出といえば写生会です。
私が通っていた小学校では毎年秋に写生会が開かれていて、全校児童が阪神パークで絵を描きました。
低学年の子供たちはゾウやペンギンなどの動物を描く子供が多く、
高学年になると菊人形や園内に咲いている菊の花、中央にあった風車を描く人が多かったように思います。
私も5年生の時には風車を描き、その絵が特選になりました。
実家にある私のアルバム帳の中にはその時の記念写真が残っています。
写生会という校外行事が今も私の母校で続いているのかはわかりませんが、
とにかく阪神パークは低学年から高学年まですべての学年に適応した写生会を行うには格好の場所だっただけに無くなるのは残念だなぁと思います。
最終日には残念ながら行けませんが、阪神パーク閉園後はイトーヨーカ堂をメインとしたショッピングセンターになるとのこと。
阪神パークがここにあったという記念になる施設をショッピングセンターの片隅にでも作ってほしいですね。
西宮市 みどりさん (30代の主婦)
阪神パーク最後の日に子供を連れて行って来ました。
西宮に住んでいながら阪神パークに来たのはこれが最初で最後でした。
小さな子供に親しめる遊園地の大切さが今の今までわからなかった自分が恨めしく思います。
阪神パークには何一つとして思い出のない小学6年の長女はどうも退屈そうでした。
もっと早く子供を阪神パークに連れて行ってあげればよかったなぁ。
最後のお別れセレモニーでは私も思わずもらい泣きしてしまいました。
スタッフの皆さんや動物たちには、おつかれ様とねぎらいの言葉をかけてあげたい気持ちになりました。
ほんとうにおつかれさまでした。
西宮市 はっちゃん (30代 主婦)
世の中には自分と同じようなことを考えてる人がいるものですね。おそらく管理人さんと自分は同年代かと容易に推測できます。
阪神パークはまさに自分の成長過程を見守ってきてくれた「安らぎの場所」であり、中でもいまや忘れ去られたレオポンと時代を共有し、第3期黄金時代に自分が5歳の子供であったことを幸せに思ってます。
歴史の長い同園のアトラクションベスト5を挙げてみましょう。
1位 やっぱり「インデアンカヌー」これが急流滑りのここでの呼び名です。ほどほどに過激という「やさしさ」が同園ならでは。91年のリニューアルで廃止。
2位 「アドベンチャーサファリ」ジープで動物をライフルで撃ちながら進むあれです。ホープ自動車工業謹製。住宅遊園になるまで存在しましたね。
3位 「ハイウエー」ここでのエンジンつきゴーカートの呼び名でいかにも昭和40年代してます。立体交差があるからでしょう。
それにしても動物園併設にして2コースのゴーカートがあったのはすごい!ジェットスターUの足元を疾駆してました。
4位 「バズーカ砲」これはボート池の上にありやはり、ホープ自動車製のバズーカに弾(軟球)をこめて標的の怪獣のへそを狙うというもので、設計年次はかなり古いと思われます。
5位 「ダッゼムカー」いわゆるぶつけ放題のバンパーカーです。類似品は各地にありますがここのが、プロトタイプのクルマが実車ぽくて好きでした。これも91年廃止。
次点 「お化け屋敷」(2つあるうちの1つ)出口間際でブラシで首筋をなめられる気色悪さがくせになる。
いずれも第3期黄金時代昭和48年の花形たちです。
また、アーケードゲームも「風船わり」は絶品でした。
笑えるのは新50円硬貨使用できますの表示!意味わかりますか?こんな表示が昭和54年になってもまだありました。
物持ちがいいのか、前時代の遺構をいつまでも大事に置いてあるというのも特徴で、「プラネタリウム」も休止後随分壊されずにおいてあったし、近年でなら「人工衛星」も機体だけ安置されるなど別に業務縮小後の近年に始まった癖ではないようです。
気になるレオポンの行き先ですが、現在候補地が3つあり東京国立科学博物館か、阪神西ノ宮駅か、西宮市役所のどれかだそうです。自分的には2か3番目でしょう。とにかく早く決まって欲しいけれども、やはりレオポンにお世話になった我々がいつでも再会できる場所を望みます。(という陳情を電鉄
にしました。その回答が上記3候補地です)
あと、芸能人ですが、これはデラックスプールの名物でしょう。
西村知美とか。シーズンオフには掛布選手のサイン会にも行きました。イベントホールでの「驚異の世界」は覚えてますよ!「まんが偉人物語展」とかね。
思い出の風船400個なんかじゃ足りない、それぐらいの重さがある・・・そう思いながらいつか来ると覚悟してたとはいえ花火をみながら「男泣き」ボロボロしてました。
Okaさん (30代 男性)
しょうこりもなく、すみません。
閉園後のこの1週間ボーッと仕事が手につかず電鉄バスの停留所名は残るんだろうか?などと思いにふける今日この頃ですが・・・
ここでもやはり「阪神子供の会」は欠かせぬ話題のようですね。自分も当時入会(年会費800円。うちの場合は自腹でしたが)してまして恩恵をこうむったクチであります。電鉄関連の施設年間12回無料というのは有難かったですね。甲子園球場の外野席もその対象でしたからね。
管理人さんのおっしゃる「もう1つのモノレール」というのは、多分当時斬新さを極めた「懸垂式モノレール」のことでは?
遊具という観点からも又鉄道車両という観点からも懸垂式は全国的にも希少で「西の上野動物園」を意識してたのでは?という熱い意気込みが感じられます。
鯛焼き―パンダ焼き。この流れはよく覚えてます。なぜパンダか?という詮索はともかく、当時まだ動物園併設でしたから、それを販売するに値するほど動物がいたという解釈でいいんじゃないでしょうか。実際、ブラックバックやニルガイという珍しいカモシカ類やガラパゴスゾウガメなど珍獣の宝庫であったのには違いありません。また、今でこそ当り前の「小動物ふれあい動物園」のブースを昭和47年時点(小生の記憶に基づく)でもうすでに存在させていたのには脱帽!です。
もし「阪神パーク」が正常進化したならばまさしく「白浜アドベンチャ―」や「姫路セントラル」と同じ路線に発展したことでしょう。
まあ、熟成しきった旧市街区内という縛りがあるので立地面で難点はあるかと思いますが、要は「デパートの大食堂」型レジャーランドの成功例だったのには違いありません。
さすがにレオポンケーキは今回の展示で知りましたが、推測では、あの「効能書き」から言って「人形焼き」のようなものかな・・と思います。ある程度日持ちしそうなものかと。
今度生まれ変わったショッピングセンターにも「ここにね、昔阪神パークがあったんやで」といえるようなものを残して欲しい気持ちはおんなじです。たとえばそれが、「タイガースショップ」でもいいだろうし最後まで残ってくれた「甲子そば」
がテナントに入ってくれたらな・・・あるいはプレイランド的スペースに「はじめてプラレール」や「メカロボ(動物型のムーバーの呼び名)」が動いてる・・というのでもいいでしょう。あるいは住宅遊園後に登場した「カルチャー教室」でもいいか
な、と思います。もっと欲を言えば「HEP FIVE」に対抗して終焉の日まで動いてた観覧車を再生するという手もあります。
まあ、どうなるかわかんないけど「エビスタ西宮」だって阪神バスの廃車体を活用してるし、何かやってくれると期待してます。
Okaさん (30代 男性)
思い出の遊具ですが、「びっくりハウス」これの類似品は全盛時の伊丹空港(屋上が遊園地だった)にもありました。
それから、「ヘリコプター塔」ですがこれの廃止は比較的近年であり、97年のリニューアル後も稼動してましたね。おそらく閉園方針決定後のことと思われます。
自分は「毎日牛乳」時代の広告塔が一番記憶に残ってます。塔の足元の売店で売ってたのも毎日牛乳だった。
「お化け屋敷」ですがこれは2つあるとカキコしましたが、ひとつ(小生の好きなほう)は純和風。もうひとつは「妖怪の城」なる洋館仕立てのものでした。
「ジェットスターU」ですが実はこれ、怖くて乗れずに下で指をくわえて見てました。これの血を分けた同型機が日光の
「那須ハイランドパーク」にいまもあるそうなので、今度想い出を拾い集めに乗りに行ってきます!
不思議なのは、大型遊具を96年の一時休園であれだけリストラしながらなぜか「海底探検」だけが残されたことです。
まあ、これとて99年頃に廃止されたので単年度予算で撤去できなかったというフトコロ事情なのかもしれません。
「おおきな風車」はおぼえてます。いつなくなったかは定かでないのは一緒ですが、たぶんゲームセンター棟外壁
の回転するピノキオと同時期の撤去じゃないかと思います。
「意外なもの」として「キディコースター」の場所に「パターゴルフ」もありました。6ホールで子供でも楽しめました。
また、コースター系は「ジェットスターU」が最初のように言われてますが1960年代風の流線型デザインのコースター
が存在してましたこれの後継が単機型の「ラビットコースター」でその後「ジェットスター」との併存時代が長く続きました。
ただ、「絶叫」の定義に入るのはやはり「ジェットスター」だけかもしれません。
Okaさん (30代 男性)
西宮に住んで5年。阪神パークは自宅から自転車で10分程度の場所にあります。
子供が小さかったので、幼稚園に行くようになったら連れて行こうと思っていて、昨年の4月に初めて連れて行きました。それが、いきなりの閉園発表!
せっかく、子供の楽しめる場所を見つけたのに、ショックでした。
最後の3月には閉園日も含めて3回行きました。3月の前半は寒い日が続き、なかなか出かけることができず、いらいらしていましたが、連休にようやく行く
ことができました。
結局、私の人生でも、娘の人生でも4回限りの阪神パークでしたが、何度乗っても飽きないキディコースターや、一度入ると2時間は遊ぶ冒険ランドなど、た
くさんの想い出を作らせて頂きました。
閉園セレモニーは、後で思い出しても涙が出るくらいで、スタッフの皆さんの挨拶を直視できませんでした。
2,3日後、娘の落書きしていた広告紙をゴミ捨てに出そうとしたところ、絵日記を憶えたての文字で書いていました。
「はんしんぱあくにいきました。ぶらんこののりものや、かんらんしゃにのりました。ぞうさんはとおくえいってしまいます。どれみちゃんとはなちゃんがき
ていました。はなびがきれいでした。でもはんしんぱあくはもうなくなってしまいます」(中略)
ゾウの飼育係の方は、行き先の千葉県の動物園でしばらく付きそうようですが、園長はじめスタッフのみなさんは4月より、どうされているのか気になります。
aahaさん (西宮市在住)
阪神パーク・・・。
私が小学生の頃、阪神パークは遠足や写生会の場所でした。いろいろな思い出がありますね。
管理人さんも書かれているように私も「びっくりハウス」で気持ち悪くなったことがあります。
あのミラーの部屋が「びっくりハウス」という名前だったことは忘れてましたが。
ベビーゴルフ(パットだけの小さなコース)というのもありましたね。あれ好きでした。
高校の時は女の子と阪神パークでデートしました。ボートに乗りましたよ。
そうそう、お化け屋敷がチャチでね。今の子供が入っても怖くも何ともないでしょう。(笑)
私が子供の頃の夏休みはデラックスプールに行って帰りに高校野球を見て帰る。というのが定番でした。
ついでに旧虎風荘(タイガースの寮)の玄関に「江夏頑張れ!」「田淵頑張れ!」と落書きしたりなんかして。(笑)
いやあ、本当に懐かしいです。
尼トラさん (尼崎市在住 43歳 男性)
阪神パークが閉園してしまうのを今阪神−広島戦を見て知りました。
私は正門まで歩いて12分、裏門まで5分位のところに住んでました、
おまけに中学校は阪神パークの裏の中学校に通ってました。
想い出は、小学生時代の毎年ある写生会と、小学4年ころ?にできた
ジェットコースターと冬、毎日のように通ったアイススケートかな、そうそう
ダッゼムカーははずせないかな。思い出そうとすると湧き水のように
思い出が出てくるのが自分でも不思議なくらいです。
レオポンももちろん見ましたよ。でもペンギンが一番好きだったかな
あと、中学校くらいになると阪神パークよりボウリング場の一階の
ビリヤード場に入り浸ってたかな?
「阪神パーク」本当にありがとう、なくなってしまうのは寂しいけれど
子供の時夢もらいました、感激しました、大人になってずっと忘れていたけれど
初めて好きになった女の子と遊びに行ったのが阪神パークでした(グループだったけど)。
本当にありがとう。
ひできさん (東京都在住 39歳 男性)
昨夜のHNK TV「にんげんドキュメント」に「きく子とあき子」の
飼育係さんが特集されてました。今回の閉園にまつわる舞台裏をつづったもので泣けてきました。彼女達は600kmの道のりを
11時間かけて市原へ移送されほかの象たちと仲よく暮らしてるようで、主役の飼育係はもちろん自分自身、感慨無量の思いです。残りの動物達も移送される映像がありましたが、一般公開されなかった動物の多いこと・・・・おそらく規模縮小後も丹精こめて
園の片隅で飼育してたことがわかります。そういう彼らも含めて
縮小後の各サイトで「同園には20ン種類の動物がいます」
「あれ?数が合わんぞ?」と野暮な詮索はしなくとも不思議に
思ったことがありますが、そこはもと一流動物園の意地でしょう。
園の終焉と共に人知れず消えた小さな命として一頭のキョンが
亡くなり土葬されている光景もありました。若い飼育係のコメントで「この子達に移送先で幸せに暮らしてほしいけども、人間の勝手でこんなことになったんだから、私のほうからは会いには行かないと思います」というのを聞いて胸が痛くなりました。
Okaさん (30代 男性)
【かもねぎより】…
私もその番組を見ていましたが途中からだったし、録画して最初から最後までちゃんと見ておけばよかったと後悔・・・。
きくことあきこに再会しました。台風4号をかいくぐり市原へ
行ってきました。その日は豪雨でお家芸の象やラクダの
ショーもありませんし開店休業状態。客もウチ以外2組しかいません。でもいいのです。悪天候だったせいでしょうか、それとも
まだ環境になじめず暴れるのでしょうか、彼女達はゾウ舎に収納(この表現が一番適切)されていました。鎖でつながれているのです。「ダンボ」のおかあさんゾウのような光景でした。
他のゾウたちはというと雨天でも外に出て、一生懸命ショータイムはなくとも「営業」していました。「これでよかったのかな」と
いう疑問は残りましたがそれでも必要最小限の生活が保証されているだけ幸せと思わねば仕方ありません。
家内に言わせると「見てはいけないものを見た」と言います。たしかに阪神パーク時代に較べたら環境は格段に落ちます。
落ちると言うか、海のものが山で暮らせと言われてるような印象を受けます。ただ、見た目にはきれいです。どの動物もきれいに手入れしてもらってるのがここの特徴のようで、唯一そこだけが
姥捨て山じゃないと言い切れる特長です。CMなどにタレント動物を貸し出しているのです。(へーベルハウス出演のゾウなど)
Okaさん (30代 男性)
【かもねぎより】…
う〜ん、見てはいけないものですか。
鎖に繋がれていたってのはちょっと可愛そうな。
阪神パークにいた頃には、そういう不自由なことはされたことがなかっただけに・・・。
阪神パークの閉園は非常に残念ですね。私は阪神パークがある鳴尾の歴史に興味があって、阪神パークのことを調べたりしています。
今、くじらのことを調べています。昭和11年南紀の太地から、くじらを運んで泳がせたという話は有名ですね。
阪神パークに「くじら号」という電車?が走っていたそうですが、その姿を写した写真があればアップロードしてください。
いま、くじら号1回200円という看板は上田西公園にあります。
それから写真の説明で気になったことがあります。それは「思い出の阪神パーク 〜その1」で甲子園浜の海岸の写真で、
「阪神間でも数少なくなった自然海岸の残る甲子園浜の海岸では、
浜甲子園阪神パーク時代の建造物の基礎の残骸が所々に見られます。」という解説がありますが、
実はその残骸は阪神パークではなく、戦前に阪神築港(現在の東洋建設)が埋め立てのために作った護岸です。
戦後、地盤沈下や台風で海底に沈み護岸だけが残ったということです。
kuborinさん (西宮市 49歳 男性)
【かもねぎより】…
浜甲子園の海岸に残っている残骸ですが、写真にあるのは間違いなく戦前まであった昔の阪神パークの跡です。
ご指摘の東洋建設が戦前に埋め立てたという部分は現在の浜甲子園運動公園の沖合あたり・
当時の阪神パークがあった部分の南東側になります。
この埋め立て部分は干潮時になると遠浅の海のようになり、この部分がよく言われる渡り鳥たちの憩いの場で、
鳥獣保護区になっています。[その1]に掲示してある写真は満潮時に撮影してあるので埋め立て地の跡は写っていませんが、
ちょっくら干潮となる時間に合わせて写真を撮ってきました。左下の通りです。
当時の地形や埋め立て地の件については東洋建設の「鳴尾事業史」という社史で、
昭和10年代当時の地図および終戦後の米軍撮影の航空写真などで調べられますが、
右下の地図の写真は東洋建設(当時の阪神築港)の鳴尾事業史に出ている埋め立て計画図の一部。
この地図と現場の崩れた護岸などの遺構とが見事に一致するので、ある意味感激します。
(地図の黄色い部分が埋め立て計画地、埋め立て予定地の左上部分にあるのが旧浜甲子園阪神パーク)
海の写真の部分、手前の崩れた護岸の手前までが浜甲子園阪神パークの敷地で、その向こう側が埋め立て地になります。
沖合にある崩れた護岸は干潮時になると現れる阪神築港(現・東洋建設)が戦前に建設した埋め立て地の護岸部分。
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写真中央の左右にわたる護岸跡の手前までが阪神パーク跡地。
その向こう・湾岸道路の手前にあるのが埋め立て地の護岸。
(埋め立て地の南西部角にあたる)。
この地一帯は戦前、埋め立て計画があり、
尼崎に続く一大工業地になる予定でした。
室戸台風を初めとした幾度もの高潮や戦後の地盤沈下により埋め立て地は消滅してしまいましたが、
干潮時(大潮)にはご覧のように護岸が表れてきます。深さは膝ほどで、
歩いて沖合の護岸まで行くことが出来ます。しかも、ここでは潮干狩りができます。
運が良ければ半日でバケツ一杯のアサリが採れます。しかもタダで(笑)
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生まれ育ちは甲子園の自分にとって阪神パークは
「育ての親」みたいなもんでした。
夏はプールに行き(阪神パークのプールより浜甲プールが安かったので途中浮気をしました)
かえり高校野球の外野(無料)というのがパターン。
小さい頃の写真はほとんど阪神パークで写ってるものが多いかな。
私は幼い頃から父が家を出たので一緒に旅行とかの写真はない。
でも阪神パークに行った写真が何枚かある。
小学校3年くらいの時「タイガースコーナー」ていうのを見て
「西宮の人間は阪神応援せなあかんのや」と思い、
野球=巨人(その年は最下位やったので弱いというイメージがあった)はくつがえされた。
それから虎キチになってしまった。(阪神パークのせい^^)
お化け屋敷は床がクッションみたいになってて(落とし穴をイメージ?)
最後のなんか首筋なでられるのが恐くていとこ達とおお泣きした記憶がある。
(唯一恐いと思ったお化け屋敷でもある。アナログであったが。)
アルミカップにいれられた焼く前のお好み焼きの具を見たのも阪神パークが
はじめてで思わずそのまま食べてしまいそうになった記憶がある。
レオポンの隣にポニー乗り場があった。
阪神パークで迷子になり四足の動物をつれた飼育係のおじさんが保護してくれた。
こうやって振り返ってみると阪神パークでいろんな事を体験している。
幼い子供にとってすべてがエキサイティングであった。
それはきっとTDLやUSJでは味わえない。
死ぬとき幼少の思い出は?と聞かれたら「阪神パーク」と答えるだろう。
阪神パークがなくなってもあった場所に孫と立ち
「ここでおばあちゃんはね楽しい思い出をいっぱいつくったんだよ」
と語るのだと思う。ありがとう!阪神パーク!忘れない!
3年前より東京都在住・実家は甲子園のビクトリアさん (30代 女性)
【かもねぎより】…
タイガースの選手ですか。
ラインバックとかブリーデンとか外人選手がいた時代の阪神は弱かったけどなんか輝いてました。
ウチに昭和50年当時の阪神タイガースの写真パネルがあります。
田渕さん、江夏さん、江本さん、ヒゲ辻、吉田監督とかの時代。掛布さんはまだ新人で後列にいる。
そうそう、写真展があった時に、こんな写真を撮ってました。(下)
こんにちは、はじめまして。
たまたまインターネットで調べ物をしていたら偶然このページにたどり着きました。
私は、生まれも育ちも甲子園阪神パークの近隣。今もすんでいます。いつも家を出ると、ヘリコプター塔が見えていたのですが、最近見えなくなりました。撤去されたんでしょうか?さっきも横を通ってきました。既に来年オープンの商業施設の工事が始まり、阪神パークは思い出の存在になっていくようです。
中学時代、私は阪神パークの隣にある鳴尾中学校に通っており、よく教室から阪神パークの光景が見えました。気がのらないとき、まどからパークを見ると、園内の放送や、ジェットスターUのダダダダダという音と共に急カーブを曲がるところが見えていたのが印象的です。また月曜日の朝礼をしていると後ろのほうから「パオー」「カオー」と動物の鳴き声が聞こえることもありました。ホームページにあるプラネタリウムにも入った経験があります。丁度ジェットスターUの場所にありました。あと、コンコルド型の滑り台がありました。操縦席もしっかりあった記憶があります。コンコルドも今年廃止されましたが、何かの因縁でしょうか。ちなみに、このコンコルド、日本航空のカラーリングでした。当時、日本航空でも計画がありましたが、騒音問題等で幻となりました。旧モノレールの件もおぼろげに覚えていますが殆んど記憶がありません。ただし、結構後までレールが残っていました。
阪神子供の会はもちろん入っていました。毎年制限いっぱいまでタダで入りましたし、夏休みはデラックスプールの水泳学校にも通っていました。スケートリンクもテント型の時にスケート教室があり、一般営業時間後にやっていました。写生大会でも入賞経験があります。そのほかにもいろいろ書ききれない思い出があります。
最終日、私も行きました。久しぶりにモノレールに乗りました。どういうわけか、子供の頃、父親と行くと必ずモノレール駅下のお好み焼き屋に行くのが慣例だったのを思い出しました。地元の同級生にも沢山会いました。最後の花火は自宅から見ました。
阪神パークもそうですが、ここのところ、地元のシンボルがどんどん姿を消して、マンションなどに変わってきました。少しさびしく感じる今日この頃です。せめてこのホームページは何時までも残しておいて欲しいです。(なんでしたら実家に昔の写真とかもありますんで、協力もします。)
しみちゃんさん (西宮市甲子園在住 35歳 男性)
【かもねぎより】…
う〜ん、毎週のように阪神パークのあった場所の南側(臨港線)を走りますが、着々とイトーヨーカドーはできつつあります。なんか複雑です。
モノレールの下の店というと、私が思い出すのはやっぱり「たい焼き」→「パンダ焼き」です。(笑)
およげたいやきくんブームとはいえ、あのたい焼きを買う行列はなんだったのやら・・・・。
甲子園駅から国道43号線を超えてくと、阪神パークまでの歩道に動物のモニュメントがいっぱい並んでいましたね。
あのモニュメントが見えてくると阪神パークに来たなぁっていう実感を子供ながらに味わっていました。
あの動物のモニュメントは閉園した今でも残っているらしいけど、母の話によれば、
私の母が祖父母に連れられて阪神パークに行った頃にはもうすでにあったそうです。
(昭和30年頃の話)
親子二代でお世話になった阪神パーク。残念なことに私の娘を阪神パークに連れて行くことは叶いませんでした。
もう3年続けてくれたら家族で行ったんだけどなぁ。そしたら親子三代で楽しんだ遊園地として、感慨深い物があっただろうと思う。
トコちゃんさん (尼崎市在住 35歳 主婦)
【かもねぎより】…
そう、まだあの動物のモニュメントは残ってますね。
聞けば昭和25年の再開当時に造られたとのことです。もう50年以上。
たぶん、ここしばらくは残っているだろうと思います。
このモニュメント、阪神パークがあったという思い出になりますね。
今度、ひとつひとつ写真に撮っておきます。
夜のニュースで、阪神パークから市原ぞうの国に行ってしまったキクコが死んでしまったと聞きました。
阪神パークがなくなってから、たった半年で死んでしまうなんて、老衰とはいえ・・・・。
閉園直前に見に行った時は少しやつれた姿だったけど私たちに愛嬌を振りまいてくれていただけに涙が出ます。
天国に行っても忘れないよ、キクコ!
ミヤコさん (西宮市 30代 女性)
【かもねぎより】…
私もそのニュースを聞いたときは、ウソーと思いました。
キクコが阪神パークに来たのが1950年。その翌年の1951年(昭和26年)には、
地元の県立鳴尾高校が選抜高校野球大会の決勝戦に進出した時、甲子園球場のアルプススタンドへ
応援に駆り出されたこともあるとか。この話は結構地元では有名。お疲れさま、そして安らかに・・・。
阪神パークから南へ徒歩15分、今は廃校となってしまった東甲子園小学校の第2期生です。出ましたな「阪神こどもの会」。
随分世話になりました。私の頃は確か、年会費300円ぐらいで、学校で担任の先生が募集していました。
今なら問題になりそうですが。
「ビックリハウス」は鏡の迷路ではなく、その隣にあった、ブランコのようなものに乗って、壁や天井が回り、360度回転してるみたいな錯覚を起こす遊具ではなかったでしょうか。そのまた隣は確か、お化け屋敷(出口の直前で安心していると、暗闇から刷毛で顔を撫でられるやつ)だったと記憶しています。
阪神甲子園駅からの歩道上には、石膏でできた動物像が並んでいましたが(まだあるのかな)、そのうち一番駅寄りのゾウ(土井医院の前あたり)の鼻は、元々は頭上に振り上げていましたが、昭和44年頃に折れてしまい、補修されて、今のように少し右に傾いだ形になっています。折れてしばらくは鉄筋が剥き出しになっていて、子供心に「かわいそうなゾウさん」だと思っていたものでした。その後大学進学・就職と、西宮を離れたままですが、暫く前までは阪神パークと同じ動物園・遊園地併設レジャーランドの仕事をしていました。その原点はやはり、阪神パークです。
kenkenpaさん (千葉県 42歳 男性)
【かもねぎより】…
当時の鳴尾地区の小学校は、阪神パークと切っても切れない仲だったのか、いろいろあったようで。
学校から阪神こどもの会の募集をするというのも今では考えられないというか、
地元だったからできたことなのかなと今になって思います。
ちなみに私は、阪神こどもの会には入ってませんでした。なんで入らなかったんだろう??
私の同級生たちの加入率は40〜50%くらいだったと思います。2人に1人は入っていたような。
鳴尾小学校ではほぼ全員が入っていたとのことなので、
やっぱり校区内に阪神パークがあるところは違うなーと妙に感激しました(笑)。
レオポンとレオポンがいた頃の阪神パークの写真及び映像を探しています
はじめまして、私は東京でテレビ番組のリサーチをしております市来と申します。
この度、6月に放送される番組にてレオポンと当時の阪神パークを取り上げることになりました。
現在リサーチを進めている段階ですが、写真や映像の資料が少なく、なかなか当時の様子や人気ぶりを知ることができません。
実際にレオポンをご覧になった方々や、阪神パークを好きだった方々ならば、当時の資料をお持ちなのではと思いたった次第です。
私自身は、レオポンが生きていた時に生まれているのですが、残念ながら見たことがありません。
もし個人的に写真や映像をお持ちの方がいらっしゃいましたら、教えて頂けないでしょうか。
リサーチの参考にさせて頂けたらと思っております。
何卒よろしくお願い申し上げます。
【かもねぎより】…
とりあえず、市来愛さん宛のメールを公開させていただきますので、
写真や映像などをお持ちの方は是非、提供してあげてくださいませ。
私のほうにはレオポンの写真は無いんだなぁ・・・。写真展していたのを一つ一つデジカメで撮っておけば良かったと今になって実感。
その写真を撮ってる方いたら私宛にお知らせ下さい。
阪神パークにいたレオポンのはく製1頭がリゾ鳴尾浜に展示されているそうですよ。
私はまだ見に行ってませんが、気になる方、阪神パークで見損なった方は行かれてはどうですか?
ミヤコさん (西宮市 30代 女性)
【かもねぎより】…
…ということでリゾ鳴尾浜へ行ってきました。(レオポン見るためだけに^^;)
エントランスに片隅にガラスケースに入れられて展示されていました。
展示されているのは「ジョニー」で、このジョニーのはく製は、
昨年(平成15年)6月に阪神電鉄から西宮市へ寄贈されたものなのだそうです。