バスの車掌さん


ワンマンカーって言葉も最近では死語になりつつありますが、昭和30年代から40年代前半にかけては、 ワンマンカー(運転士のみが乗務)とツーマンカー(運転士と車掌の二人が乗務)の2つのバスが混在して運転されていました。
昭和40年代生まれの私が物心ついた頃には、都市部のほとんどの路線バスがワンマン化されていたので、 車掌さんの乗ったツーマンカーに乗る機会と言うのはほとんどありませんでしたが、 狭路のある区間や山間部、郊外へ行くと、まだまだツーマンカーが健在でした。 その中で、記憶に残る車掌さんが乗務したツーマンカーの思い出なんぞ、ここで紹介してみます。

● 阪神バス鷲林寺線
この路線には女性車掌が乗務し、停留所案内は車内マイクを使って肉声で案内していました。
阪神西宮の7番のりばから出発し、国道2号線の西宮市役所前交差点を左折、市役所前線を北へ走り、 阪神上水道前を過ぎて国道171号線に右折、市民体育館前の交差点を左折して山手循環線と同じ経路で新甲陽口まで行くと、 今度は山手循環とは違う経路でバス一台がやっと通れる細い道(大師道)に入ります。
大師道バス停を過ぎるとさらに険しい登り坂が続き、途中、高級料亭の播半付近での狭路を過ぎると、 植物園口バス停、そして甲山大師バス停を過ぎ、北山貯水池、甲山墓園バス停を通過して鷲林寺からは下り道。 鷲林寺南口を経て長い下り坂を走り、獅子ヶ口、満池谷を経て、ふたたび出発地点である阪神西宮へ戻るという循環路線でした。
バスは西回りと東回りとがあり、それぞれ1日に5〜6本程度運転されていた記憶があり、 夕方5時頃が最終でした。 運賃は現在のように均一運賃ではなく、阪神西宮から東回りに乗れば獅子ヶ口までが1区で(昭和48年当時で運賃60円)、それ以後は2区運賃(同・90円)、 西回りのバスなら大師道までが1区で、それ以後は2区運賃でした。
この路線、昭和50年に狭路区間であった大師道〜甲山森林公園前間を休止し、 阪神西宮〜鷲林寺〜甲山森林公園前間の路線となり、それと同時にワンマン化されました。 現在のように循環運転が再開されたのは17年後、料亭・播半前の狭路区間の拡幅工事が完工してからでした。

● 阪神バス六甲山上線
六甲ケーブルの山上駅前から東六甲へ至る路線です。さらに1日に1往復のみ、阪神西宮から、鷲林寺、宝殿橋、六甲最高峰、 東六甲を経てケーブル山上駅へ至る路線がありました。 この西宮から六甲山へ行くバス、鷲林寺までは鷲林寺循環(西回り)のバスと同じルートをたどり、 鷲林寺からの停留所は、盤滝口、宝殿橋、鳥居茶屋、六甲最高峰、東六甲、山水荘、 カンツリーハウス、雲ヶ岩、高山植物園、凌雲台西口、六甲オリエンタル、天狗岩東、天狗岩西、 ケーブル山上駅の順。 この路線にも女性の車掌が乗務していましたが、西宮六甲線は昭和49年頃には廃止となり、 六甲山上線も昭和50年にはワンマン化され、運転区間が東六甲から「東六甲凌雲台遊園地前」 (現在の「東六甲回る十国展望台前」)へ短縮されました。

● 伊丹市バス荻野線
伊丹市バスで最後まで残っていたツーマンカー区間は、阪急伊丹〜荻野間の路線でした。 こちらも阪神バスと同様に女性車掌が乗務し、停留所案内、運賃授受、ドアの開閉を行っていました。
途中、伊丹坂・清水橋付近の狭路の関係でワンマン化ができなかったのですが、 同じ区間を走る阪急バス(阪急伊丹−池田間)では添乗員を乗務させる形で、 伊丹市バスよりも先にワンマン化されていました。
この区間、バスの接近を知らせる警告信号機と、バスのすれ違いをスムーズにさせるための対面通行信号機を設置することで昭和55年にワンマン化されました。 阪急バスでも同じ日に添乗員の乗務がなくなったようです。

● 神戸市バス19系統
19系統、阪神御影〜鴨子ヶ原間の系統は、阪急御影付近の狭路の関係でワンマン化の遅れていた路線でした。
昭和50年代に見ていたところでは、いつも男性の車掌が乗務し、停留所案内、 ドア開閉を行っていました。
この路線がワンマン化されたのは昭和60年頃だろうと思うのですが、 その時期、私は進学のために関西を離れていたのでよく知りません。 ワンマン化の詳細な時期をご存じでしたら是非お知らせを。

● 神戸市バス16系統
16系統は、阪神御影から六甲ケーブル下間を走る路線。しかしこの路線、昭和48年当時はワンマンカーとツーマンカーが混在して走っていました。 この沿線には狭路があるわけでもなく、100%ワンマン化に対応できる路線だと思うのですが、 なぜかツーマンカーも走っていました。(中央に1ヶ所しか扉のない車両とか) これは車両運用の関係だったのでしょうか? 神戸市バスには、普段はワンマンなのに車掌さんの乗ったバスが走ることがあるなんていうバスが他の路線にもあったような気がします。

● 神戸市バス六甲登山バス
昭和50年頃、同じ六甲登山バスの阪急バスではワンマンカーでしたが、 神戸市バスは車掌さん添乗のツーマンカーでした。
神戸市交通局はワンマン化の対応が遅れていたのでしょうか。この区間も、 特に狭路といえる狭路はありませんでしたから…。 ちなみに、ケーブル山上駅と奥摩耶(現在の「摩耶ロープウェイ山上駅」)とを結ぶバスもツーマンカーでした。

● 神戸市バス・神鉄バス61系統・鈴蘭台線
神戸市バスと神鉄バスの共同運行により走っていた神戸駅南口〜鈴蘭台間の系統。
この路線は、平野〜天王谷〜高座金清橋〜水呑間で、狭路があったためにワンマン化できずにいたのですが、 同区間を走る神姫バスは、昭和55年当時ではすでにワンマン化されていました。
神鉄バス、神戸市バスともに若い男性車掌が乗務し、ドアの開閉、運賃の授受、停留所の案内放送をしていました。 この路線もいつ頃ワンマン化されたのか、はっきりとした時期を覚えてませんが、 昭和58年にはツーマンカーでしたが、昭和60年頃にはワンマンカーになっていたと思います。 これまたワンマン化された時期ご存じの方いらしたら教えてください。

● 神鉄バス三田・道場線
三田駅から国鉄道場駅へ至る路線。道場駅での折り返しに車掌による誘導が必要だったのか、 車掌が乗務していた路線でした。 この路線、平成8年に道場駅から鎌倉峡口間を休止してしまいましたが、 いつ頃ワンマン化されたのか、その時期がわかりません。 結局この路線は平成12年に全線運行休止となりました。

● 神戸市バス25系統
三宮から再度山を経て森林植物園へ至る登山バスの一つ。
こちらも途中に狭路があったためにツーマンカー運行されていましたが、昭和60年頃には 誘導員を乗務させる形でワンマン化されました。少し変わったところでは、 ワンマンカーになっても、その誘導員が乗客に手渡しで整理券を配っていたことでした。
印刷済みの整理券(回数券サイズの色つきの紙に停留所名が印刷して書かれたもの)を一人一人に 手渡しするという方式で、運賃の授受は運転席側の運賃箱に投入し運転手が行っていました。

● 神戸市バス111系統
箕谷駅前から衝原までの路線。昭和50年頃は、衝原からさらに先の下衝原まで路線が 延びていましたが、呑吐ダム建設のために廃止されています。
この路線がツーマンカーだった頃には乗ったことがありませんでしたが、昭和55年当時は まだツーマンカーで、箕谷駅前に男性の車掌さんの乗ったバスが止まっていたのを何度か目撃しました。 ちなみにその当時の箕谷駅は、駅前までバスが乗り入れてました。(駅前の少し広くなったところで、車掌さんの誘導によりバスが転回していた) 昭和57年頃に乗った時には、すでにワンマン化されていました。
ところで昭和50年代、神戸の市バスではどの路線でも女性の車掌というのを見たことがなかったのですが、 いつ頃から男性ばかりになったのでしょうね? 昭和50年以後に神戸市バスで女性の車掌さんを見た方、いますか?

● 山陽バス垂水線
山陽バスの垂水線は、平成9年春までツーマンカーが健在でした。こちらはつい最近のことですし、 結構若い人でも見たことがあるので馴染みがあるかもしれませんね。
最近までワンマン化されていなかったのは、途中の商大筋の狭路があったためでした。 ラッシュ時になるとバスの本数も増大するため、車掌に学生アルバイトを使って対応していたという珍しい路線でもありました。 学生のアルバイトでも、ちゃんと停留所案内、ドア開閉と運賃の授受を行っていましが、 狭路区間でバスから降りて誘導するという光景は、私は見たことがありませんでした。

● 神姫バス粟賀営業所付近の路線
神崎郡大河内町、国鉄播但線の寺前駅から川上へ行く路線、寺前駅から上小田・峰山レクセンターへ行く路線(現在は短縮して上小田または高倉まで)では、 昭和50年頃までは車掌さんが乗務するツーマンカー路線でした。
車掌さんは女性だったり男性だったりしてましたが、田舎の路線だったからでしょうか、 車掌さんは停留所の案内はいっさいせず、ぼーっと突っ立っていただけでした。
途中停留所から乗り込んだ時、お客さん一人一人がどころから乗ってきたかを覚えているのでスゴイ! と感激したこともこの路線でのことでした(笑)。
しかし、混雑しているとさすがに乗客の乗車停留所を覚えるのは無理とみて、 そういう時は番号が書かれた回数券タイプの整理券をお客に一枚一枚手渡ししていました。
昭和52年頃になるとこの路線にも従来のツーマンカータイプの中扉車から変わって前後扉車が導入され、 それは一見するとワンマンカーなのですが実はワンマンカーじゃないというタイプのバスになりました。
実はワンマンカーではない…その言ってる意味が分からないと思いますが(^_^;)…、つまりはこうです。 従来なら車掌台が中央扉にあるものですが、車掌台が前扉に移動し、 運転席の横、すなわち進行方向左側の一番前の座席を撤去し、そこに運賃箱を置き、 車掌が最前部の座席を陣取るというタイプのツーマンカーが入っていたのです。
バスは後扉から乗り込み(整理券発行機から整理券は出てこなかった)、 前の座席に座っている車掌の運賃箱に運賃を投入してバスを降ります。 ちなみに運賃表示器(幕式のやつ)も取り付けてありましたが、まったく稼働してませんでした。 運賃は運転席後に貼り付けてある三角運賃表で確かめて支払うという旧来のスタイル…。 このワンマンバスタイプのヘンテコツーマンカーは、神姫バスのこの路線以外では、 後にも先にも見たことがありませんでした。
昭和54年頃には、やっと普通のワンマンカータイプの車両に変わり、 今までの車掌は誘導員という形に変わったようで、テープによる車内放送と運賃表示器、 整理券発行機も稼働するようになりました。
また、パスの後部にはテレビカメラが取り付けられ、 運転席側には白黒のモニターで後の様子を確認できるシステムもスタート。 しかし、添乗員さんが「オーライ・オーライ」とやっていて、ぜんぜん省力化の役に立っていなかったのです。

現在、その路線では終着地(川上)にバスの回転地を設けることで、完全ワンマン化されています。 道路事情もよくなり、それまでのような大型車同士の行き違いが出来ないといったこともなくなりました。 今、そのバス路線は神姫グリーンバスとなっています。


他府県で乗ったツーマンカー


● 高槻市営バス
私が中学生の時に乗った高槻市バス、旧西国街道を走る国鉄高槻〜梶原東間の路線では、 女性車掌が乗務し、マイクなしで停留所案内をするという、今まで味わったことのなかった、 いにしえのツーマンカーといったバスでした。
揺れる車内で、車掌台に立つ女性車掌が「つぎは〜、梶原〜、梶原〜、お降りの方はございませんか〜?」 といったような案内をマイクなしの肉声で行っていたのです。 降りる時は降車ボタンで合図するのではなく、車掌さんに「降ります〜」と口頭か態度で示します。 この光景を味わいつつ、昔はみんなああだったんだろうなあ〜なんて思いながらこのバスに乗ったものでした。
これで運賃箱がなく、がま口を首から下げた車掌さんから切符を買うシステムだったら、 カンペキに昔のバスなんでしょうけど、ベルト式の電動運賃箱が車掌台に取り付けられ、そこに運賃入れるシステムでした。

● 石見交通バス・広島電鉄バス
ということで、首からがま口下げて…の昔の車掌さんスタイルを初めて見たのが、 島根県を本拠地とする石見交通バスでした。
この路線は山陽−山陰とを連絡する中距離バス、山陰・島根県の浜田から芸北町、加計、水内、飯室、可部を通って 広島駅へと行く路線で、車両は前扉だけの観光バススタイルのものでした。 中距離バスでしたが途中停留所も多く、短距離客も大勢利用していました。
このバス、まず乗り込むと車掌さんから乗車券を購入するタイプだった。 車掌さんは、首からがま口をぶら下げて、切符には乗車地と降車地の書かれた部分に入鋏するという、 まさに、いにしえタイプ。
行きには石見交通、帰りは同路線の広電バスを利用しましたが、どちらのバスも車掌さんが乗っていました。
これに近いものが、日本交通の山陰特急バスにもありますが、こちらはがま口は下げてませんでしたね。 その日本交通の山陰特急バスもワンマン化されてしまいました。

● 中央アルプス観光バス・伊那バス
中学校の修学旅行で利用したのがこのバス。場所は長野県の駒ヶ根市。木曽駒ヶ岳へのロープウェイのりばまでは一般車両乗り入れ禁止のため、 観光バスではなく、ふもとの「菅の台」から「しらび平」までは、路線バスに乗って行きました。
その時に乗ったバスが路線バス仕様のツーマンカー。車掌さん乗務で、途中の観光案内・説明をする点で一般路線とは少し違っていましたが…。 この路線、聞くところによるとごく最近までツーマン運行していたらしい…。現在はワンマンカーだそうです。 ま、この路線は特殊ということで。
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