阪神電鉄バスの歴史


阪神国道自動車の設立と開業

大正15年(1925年)12月、大阪と神戸との間に本格的な自動車道路として 阪神国道(国道2号線)が開通。この国道上でのバス事業を目的として30件以上の 免許が競願される状況になり、昭和2年4月頃になると出願者の間に合同会社設立の 動きが生まれた。

阪国バスの大型車両
阪神電気鉄道(以下、阪神電鉄と表記)でも昭和3年2月に「阪神国道自動車株式会社」の設立を計画し、すでに昭和2年から 大阪野田〜東神戸間で営業を開始していた阪神電鉄系の阪国電軌としては、国道の築造費の 一部を負担し、国道上に軌道を経営する以上、当然阪国電軌(昭和3年4月、阪神電鉄に吸収合併)側に 認可されるものと期待した。しかし、結果は出願した37社の中から 有力8社が選ばれ、結局、阪神電鉄、京阪神急行電鉄(阪急)他、地元有力者との間で、 昭和3年10月8日、資本金500万円で阪神国道自動車株式会社が設立された。
そうして昭和4年4月1日、大阪福島と神戸滝道(三宮の国際会館付近)間に 大型バスの運転を開始する。
阪国バスは当初、寄り合い世帯の面もち企業であったが、阪神電鉄は逐次株式の買い増しをし、 昭和6年には、全発行済み株数の半数を占めるに至り、阪神系バス会社としての顔を保つようになる。

宝塚尼崎電気鉄道

阪神電鉄系列のバス会社として運行を続けた阪神国道自動車(以下、阪国バス)は、 昭和7年11月18日、同じく阪神電鉄系の宝塚尼崎電気鉄道株式会社を吸収合併した。

宝塚自動車専用道路(昆陽里付近)昭和7年頃
宝塚尼崎電鉄は、宝塚歌劇場前付近から小浜、猪名野(現在の伊丹市西野)、昆陽里を経て、 阪神国道の西大島までほぼ直線で貫き、さらに阪神電鉄の尼崎駅との間に計画された鉄道で、 大正15年以来工事に着手し、昭和2年末には架橋工事を除き、宝塚〜西大島間の土木工事は すべて完了させ、残るは架線柱と線路を敷設させるのみであった。
しかし、阪神電鉄本線と接続する尼崎市内の高架化の要求が県より出され、技術上、いくつかの 困難が予想されたことや、また、時勢が不景気であったことで資金的な問題もあり、その後の 工事が頓挫していた。 結局「景気が好転し、電気鉄道事業を開始する機運に至るまでの間に限り」線路敷を道路に 変更し、そこにバスを走らせる計画を立てた。
しかし、線路敷に乗合自動車を走らせることは過去に例が無く、兵庫県も許可しないことが わかり、線路敷を自動車専用道路に変更することとした。その許可は昭和6年に兵庫県より 認可される。

自動車専用道を走る阪国バス(労災病院付近)昭和12年
この自動車専用道路は、昭和7年11月25日に開通し、西大島から宝塚歌劇場前まで延長 10キロ、幅員7メートルの道路で、自動車専用としては関西で最初のものであり、昭和17年 4月2日、兵庫県に買収され、県道に編入されるまでは、バス以外の車に対しては通行料金を 徴収する有料道路であった。
阪国バスと宝塚尼崎電気鉄道との合併には、宝塚尼崎電鉄では路面舗装を完工させたものの そこに走らせる自動車に事欠き、一方で阪国バス側では車両が余っていることから合理的な 合併であった。昭和7年11月18日に両社は合併。そして昭和7年12月25日より、 神戸・大阪と宝塚を結ぶバス路線が開業した。 また、昭和8年12月からは、大阪梅田新道への乗り入れも開始された。

直営バス事業の開始

阪国バスは別会社組織であったが、阪神電鉄直営のバス事業も昭和4年から開始された。
同年7月23日より、香櫨園駅と香櫨園海水浴場との間で海水浴客を輸送するために、 わずか1キロほどの距離で運行を開始したのが、その始まりである。

開業当時の西宮循環バス(昭和4年)
海水浴シーズンが終わり、西宮市内を循環する「西宮循環バス」が同年9月2日に開業、 以後、昭和4年12月には甲子園地区で、昭和6年には武庫郡大庄村(現在の尼崎市武庫川付近)、 同年12月には尼崎と西宮の間で旧国道バスの運転を開始し、昭和8年1月には、芦屋地区を 走っていた芦屋乗合自動車を吸収合併し、阪神間での路線網ができあがった。
しかし、同年3月25日、阪神電鉄の自動車営業部門と大阪市内を走っていた 淀川自動車株式会社とを合併、新設させた「阪神乗合自動車株式会社」へ、その営業権を 譲渡し、阪神電鉄による直営バス事業は、わずか4年弱で終えることとなる。

戦後の直営バス事業再開

最盛期である昭和16年には保有車両数114両、営業キロ数58.8キロに達して いた阪国バスも、太平洋戦争末期には可動車両はわずかに10両となり、営業キロ数も 20.9キロに縮小され、1日数回、宝塚線のみを運転するだけという状況に陥っていた。
昭和20年8月、阪神電鉄に次ぐ大株主である阪急電鉄から保有株式をすべて買収し、 阪国バスを完全保有の子会社とした阪神電鉄では阪国バスの復旧につとめ、 車両の増備、営業路線の復活などを進めたが、戦争によって沿線が荒廃していたため 利用者は少なく、復旧のための設備投資がかさんでいたために経営を圧迫し始めた。 阪神電鉄では、阪国バスを救済合併させることを決め、昭和24年11月、460万円を もって阪国バスを買収し、阪神国道自動車は親会社である阪神電鉄に営業権のすべてを譲渡し、 合併されることとなった。

阪国バスの貸切バス(上・昭和29年導入。下・昭和25年導入)
阪国バスを吸収合併した阪神電鉄では直営バス部門の自動車部を設立し、 バス事業に積極的に取り組み、車両の新造に力を注いだ結果、昭和24年 12月26日には休止中であった大阪・神戸間直通運転を復活するに至り、 さらに翌年、昭和25年6月6日には、新たに国鉄甲子園口から浜甲子園に 至る甲子園線、同年9月には西宮戎から新甲陽、苦楽園口に至る西宮循環線 (山手循環線)などの新路線を相次いで開設し、昭和27年4月からは、戦時中より 運休中であった六甲山上バスを復活させた。
また、同じく昭和25年には一般貸切自動車業の免許も取得し、貸切バス事業も 開始している。

路線網の拡大

バス路線は、昭和24年に阪国バスから営業を引き継ぎ、梅田新道〜三宮〜神戸税関前間の 阪神国道上の東西路線と、宝塚線、西宮市内線などの南北路線で構成されていたが、さらに 戦争で休止していた阪神乗合自動車の路線を復活することに主眼を置き、西宮市内線の 拡充に力を注ぐ。

阪国バスの浜田車庫全景(昭和29年)
しかし、西宮市内では戦後設立された阪急バスによって西宮市内に路線網を広げることが表明され、 また、西宮市でも市営バス構想を打ち出したために西宮市内を3者競合する事態となる。 その後、西宮市が市営バス構想を撤回し、阪急バスとの競合関係が生じることとなるが、 昭和29年に協定を結び、国鉄以南を阪神電鉄が、国鉄以北を阪急バスがテリトリーとする ことで両社で合意した。以来この協定は現在も生き続け、この協定がネックとなり国鉄以北地域と 国鉄以南地区とを結ぶバス路線が新たに開設できず、逆に市民にとっては不便さを強いられることと なった。

大阪バスセンター乗り入れ

阪国バスの大阪側起点は梅田新道であった。これは戦前から阪神が確保していた ものであったが、他の民営各社は大阪市バスの障壁で自社ターミナルに乗り入れることが できずにいた。戦後になり、民営各社のバス会社による大阪の都心乗り入れの動きが見られ、 民営各社はこぞって免許を申請し、阪国バスでも難波への乗り入れを申請した。

大阪内本町バスセンター(昭和29年頃)
(右側のボンネットバスは、南海バスと思われる・・・。)
こうした一連の民営各社による都心乗り入れに対し、大阪市は当初、 強く反対したが、運輸省と陸運局の仲裁によって、市の中心部、内本町 2丁目にバスセンターを設け、民営バスはすべてそのバスセンターへ 乗り入れること、市内はクローズドドア方式を採用することで妥協した。
昭和28年8月より、国道線(神戸線)と宝塚線で、神戸税関前〜内本町2丁目間、 宝塚〜内本町2丁目間の運転を開始した。阪神以外にも、阪急バス、京阪自動車、近鉄、 南海の4社も同時に乗り入れを開始したが、各社とも輸送実績は思わしくなかった。 その後は運転区間の縮小、運転数の減便を続け、昭和44年12月には 乗り入れを廃止し、バスセンターは昭和45年1月には閉鎖されることとなる。

阪神電鉄バスとしての再スタート

昭和33年には、戦前から運営を続けていた阪神乗合自動車(阪神タクシー)から バス事業を引き継ぎ、直営の阪国バスと一本化することとなり、ここで長きに わたって愛され続けてきた「阪国バス」の名称を「阪神電鉄バス」と変更することとなる。